いつか喫茶店をやりたい、そう思うようになったきっかけの一つに中野にあった名曲喫茶クラシックの存在がある。区内のオーケストラ部がさかんだった高校に通っていた当時、オケ部の御用達だというその店を友人が教えてくれた。暗い店内、ギシギシと鳴り斜めになった床、愁いのある絵が飾られた壁、破れたソファ、レコードから流れるクラシック音楽、、足を踏み入れた途端静かなドキドキが止まらなかった。いっぺんでその場所が好きになった。
入口で注文するメニューは珈琲、紅茶、ジュースの3種のみ。お世辞にも美味しいとは言えなかった。ジュースは粉末を水で溶いたオレンジジュースまがい。後にステンレスのものに変わるミルクピッチャーはマヨネーズの白いキャップが使われておりお冷は大関ワンカップの空き瓶に注がれてきた。何これ、何かすごい、、と十代の私はその美意識にしびれたのを覚えている。
飲み物が美味しくなくてもその空間は特別だった。唯一無二という言葉がしっくりくる。違う次元の世界に入りこんだ感覚。高校卒業後も立ち止まりたい時や何かを考えたい時にはその場を訪れた。クラシックで過ごした時間は自分の中に深く刻まれいつしか自分も誰かの特別な時間を提供したいと思うようになった。
2024年8月一念発起し浅草の地でカフェをオープンさせるにあたりふとクラシックの創業者のことを検索してみた。それまでどのような人が開いた店なのか知らなかったからだ。そして店内の絵を描かれていた美作七朗さんが創業者であったこと、彼の没後30年を記念して出版された作品集の存在を知る。すぐに取り寄せてみると作品集には私と同じクラシックファンの言葉がみっちり詰まっていた。多くの人に愛された店であったこと、美作七朗さんの芸術や文化を愛する精神、寛容な人柄。クラシックに通っていた頃から長い年月を経てあの空間を構成していたすごいものの正体を垣間見た思いだ。人間のすごさを知る時、よし自分もと励まされる。美作七朗さんの作品集は私の夢への挑戦に力をくれた。